瞑想のこと。



まず、自分の手や足の位置がどこにあるのか、
自分の重心が足のどこにあるのかを把握していないのに
「意識」や「心」を把握するのって難しいと思いませんか?

「意識」や「心」をコントロールするようなことを学ぼうとするとき
本物の師はまずひたすら簡単な動きを実践させる。

それを通して、「自分の肉体を観察して把握するという技術」が身につくから。

「それ」が身について、身体の観察と認識が進むと、
自然と「心の動き」や「意識の動き」など
物質化されていないものへ、その観察の対象が広がっていく。
おや、この動きの中には目に見えない「動き」があるぞ。と。
そこから目に見えないものへの興味が始まる。
概念を先に学ぶと成果があげられない人が多いのは
観察力、把握力、持久力が身につかないうちに、
より観察が難しいものへとその対象を向けてしまうから。
自分で発見していないものを
「在るもの」として「無い理屈」を構築していくから。
瞑想の練習の前に、アサナの練習が必要であるというのはそのためです。

「ひとつの動きが世界を救う」くらいの真剣さを持って(笑)
アサナに取り組んでみると、動きの精密さ、内側の動きはどんどん加速する。
たしかに全てが統合された美しい動きには世界を動かすまでのすごいパワーがある。
重力や引力を超えて肉体の動きを操る時、
人はどういう意識状態で、どういう心理状態でいるのか。
時空間やエレメントを超えた動きをマスターするとはどういうことなのか。
想像してみてほしい。
そこには3次元的な「動き」を超えた「動き」があるはず。
単に「じょうず」を超えた真実があるはず。

さて、自分の「動き」はどうだろうか?
世界を動かせそうだろうか?
せめて自分の意識は動かせそうだろうか?


まず、それを観察してから意識のことに取り組もう。


肉体を観察できなくて、意識が観察できるわけがないんだから。


現代的な人々は、
肉体の動きを把握することは
意識の世界を扱うよりも簡単で表面的だと思っている人が多い。


スピリチュアルなことと相反すると思っている人も多い。
肉体の修練をせずに、意識の世界を学ぼうとする人も多い。


しかし、この「一見私としてある物質的な私」である肉体と向き合うことは
意識の世界のことを学ぶために必ず必要な入り口である。


なぜ同じ人間が、同じ動きをしても
あんな風に見えたり、こんな風に見えたりするのか。


そこにすべての真実がある。

肉体と向き合うことは、観察力と物質化力という、ベーシックな土台を作る。

これがないと瞑想が安定しないし、本質的なところにどうしても到達しない。


肉体や「目に見える動き」をマスターして行った先に
目に見えない「瞑想」や「意識」のコントロールがある。


私がヒーリングや瞑想に出会ったのは肉体の修練を続けて行った先に
必然的にうかびあがってきたことで
私は決して何かをすっ飛ばして、そこに飛びついたお陰で人生が好転したわけではない。


肉体の修練に興味を持ってダンスを始め、
ヨガの修練の先に、
肉体の浄化が勝手に起こって、
意識の覚醒や、ヒーリングが勝手に入ってきたから

たまたまスムーズに力強く進めた。


ただそれだけだと思う。


やっぱり瞑想を学ぶには瞑想を学ぶ前の土台作りがないと
即席の持続力の無いものになってしまうことは理解してほしいと思う。


またカラダが弱くて動けなくて瞑想しか取り組めない人は
瞑想だけを練習することもあるかもしれない。


瞑想自体も長い時間をかけて育てていくもので、
いろんな段階を経ていろんな発見があると思う。


その中で様々な恩恵を受け取る。

それが引き寄せだったり、シータヒーリングだったりするのかもしれない。


だけれど、それ自体が目的になるとやっぱりその効果は薄くなってしまう。


土台は観察であること。


それが理解できれば、やることは自ずと見えてくるのだと思う。
そして多次元的な意味での「癒し」は自然と起こるのだと思う。


今回、私たちの企画する瞑想のコースに参加してくれる人たちも

御利益を求めて短期的に取り組むのではなく

ぜひ長期的に取り組んでみて欲しい。


瞑想はやはり長期的に練習していく中で発見していくもので

その過程でたくさんの恩恵もついてくる。


長期的に取り組むことで、暮らしの中の選択を変えていって

関わる社会を変えていってみて欲しい。


生きとし生けるすべてのものが幸せであるように。

私たち一人一人がうちなる調和を発見していけるように

祈りながら。


0コメント

  • 1000 / 1000